エリア別案内
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赤門周辺エリア
赤門・法華の乱供養塔・阿弥陀堂・極楽橋・矢杉・ねずみ地蔵・六枚橋・蛇封じの井戸・表参道・井伊直滋公墓所
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本坊庭園・喜見院周辺エリア
喜見院・庭園・不動堂・作務所(休憩所)・南庭・表門・弥勒半跏石像
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仁王門周辺エリア
旧喜見院・仁王門・弁天堂・観音杉
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本堂周辺エリア
本堂・三所権現社・旧本堂跡・五重の塔跡・鐘楼・千年菩提樹・北参道
赤門周辺エリア
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- 総門(赤門)
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【市指定建築物】
百済寺の山門。朱塗りのために通称「赤門」と呼ばれ、この門も本堂と同じ慶安3年(1650)に建立されました。
この赤門の前には、<小野道風>おののみちかぜ/とうふう筆と伝えられる「下乗石」があります。
2018年4月『赤門』は、新たな歴史刻むべく、この度改修を行いました。
過去、江戸後期・幕末明治初期・昭和三十年代の修理があり、今回は4回目。また、「平成の改修」は初めてとなります。
- 天文法華の乱 戦士供養塔(てんもんほっけのらん せんしくようとう)
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赤門を入った左側に天文法華の乱のときに出陣した百済寺僧兵の戦死者の供養碑が建立されています。
- 阿弥陀堂(あみだどう)
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- 極楽橋(ごくらくばし)
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赤門を過ぎて50m程歩くと「五の谷川」に朱色の「極楽橋」が架かっています。
「極楽橋」の手前が「此岸」、渡り終えると「彼岸」となります。
この橋から本堂まで参道の両側には延々と「石垣参道」とルイス・フロイスが「地上の天国 一千坊」と絶賛した「僧坊」の遺構が左右に展開します。
- 矢杉(やすぎ)
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天正元年4月8日に、信長軍が守山から百済寺に侵攻をかけた時、山内の巨杉の葉までが弓矢となって応戦したことから「矢杉」と名付けられました。
- ねずみ地蔵(ねずみじぞう)
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- 六枚橋(ろくまいばし)
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- 蛇封じの井戸(じゃふうじのいど)
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- 表参道(おもてさんどう)
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三山の中で百済寺の参道は、入口にあたる山門(赤門)から本堂までの長さが最も長い。
その参道の両側には老杉が林立し、支院跡の名残を残す苔むした石垣が続き、歴史の深さを感じさせられます。
- 峻徳院殿墓所/井伊直滋公墓所(しゅんとくいんでんぼしょ/いいなおしげこうぼしょ)
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赤門の南側、夷母谷に峻徳院殿御墓道という石碑が立つ200mほど奥に井伊直滋公の御墓があります。万治元年(1658年)、井伊家2代当主直孝は次期当主と目されてた嫡男直滋を突然勘当し、彦根藩領内の百済寺(旧愛東町・現東近江市)に隠遁。父直孝の死から二年後、直滋は寛文元年6月9日(1661年7月5日)に百済寺でこの世を去りました。
本坊庭園・喜見院周辺エリア
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- 本坊喜見院(ほんぼうきけんいん)
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【国登録文化財】
百済寺一山の本坊は喜見院です。阿弥陀如来をお祀りしております。
昭和15年に仁王門南側から現在の位置に移築され、それにともない庭園も旧本坊のものを拡張改造されました。
寺社庭園としては、県内最大級で巨石群の配置が見事です。
- 本坊庭園(ほんぼうていえん)
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この庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園で現代鈍穴流の作法で作庭されています。とくに聖徳太子の願文に「一宿を経るの輩は必ず一浄土に生る」とありますが、これにちなんでこの庭も東の山には弥陀観音勢至の三尊をはじめ各菩薩に見たてて石を配しております。
これらの巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川から集められたものを組み合せて作庭されました。また、庭内には中世の石造品の残欠も多く見られます。
本坊庭園は別名「天下遠望の名園」と称されており、西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で、広大なパノラマ展望を望めます。さらに西方、880km先には、往時の「百済国」がありました。
百済からの渡来人が母国を偲ぶ気持ちで「遠望台」に立つ時、両国の深い交流関係が蘇ってきます。
- 不動堂(ふどうどう)
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【東近江市指定文化財】
百済寺奥の院(大萩西ヶ峯)の不動堂を明治時代に本坊隣に移築したものです。木造不動明王二童子像をお祀りしております。
- 作務所/休憩所(さむしょ)
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作務所・休憩所です。こちらでは展示会などの催しにご利用いただくことも出来ます。
- 南庭(なんてい)
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通用門から表門にかけて広がる南庭は、憩いの場として休憩などしていだたけます。
- 表門(おもてもん)
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表門の前には、杖をご用意しておりますのでお使い下さい。
- 弥勒半跏石像(みろくはんかせきぞう)
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境内に建つ「弥勒菩薩半跏思惟像」。座高1.75m・全高3.3mの石像で、当山寺宝、金銅製弥勒像(像高27cm)は秘仏であり、平素のお参りとして拡大したもので、2000年のミレニアムを記念して建立しました。
仁王門周辺エリア
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- 旧喜見院跡(きゅうきけんいんあと)
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昭和十五年に喜見院を移設した跡地です。
- 仁王門(におうもん)
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長い参道の本堂近くに立つ仁王門は、本堂と同じ年代に建立されました。
三間二間で一対の金剛力士像が向きあっております。
この仁王さまはお寺を守る守護神で、金剛は「阿形(開口)」、力士は「吽形(閉口)」で勇猛、剛健、とくに健脚の両足に草鞋を履く「印度発祥の東洋的な神様」です。
日中に仕事を終え、夜間は草鞋を仁王門脇に脱いで立ちながら休まれます。正面につり下げられた一対の大草鞋は昔は仁王像の大きさに応じて50cm程度でしたが、江戸時代中頃から仁王門を通過する参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになり、触れると、身体健康・無病長寿のご利益があると言い伝えられ、草鞋が大きいほどにご利益も大きいと、どんどん大型になっていき、今では3mほどになりました。
地元の方々が、約10年毎に新調致します。(2018年大草鞋新調予定)
- 弁天堂(べんてんどう)
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慶安3年(1650年)に本堂とともに建立された弁天堂は、昭和の豪雪で倒壊し、平成8年に新築した御堂が平成24年の春の旋風で再び倒壊し、現在は平成25年に再建され、七転び八起きの弁天様が祀られています。 弁財天は、もともとインドの水を司る「河川の神」で、怒ると大洪水を、治まると台地に肥沃な恵みをもたらす「女神」として崇められ、仏教に取り入れられてからは七福神の一人として、貧困を救い財産を与える「弁財天」となりました。
- 観音杉(かんのんすぎ)
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樹齢430年と推定される境内最大の樹木、観音杉です。
本堂周辺エリア
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- 本堂(ほんどう)
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【国重要文化財・唐破風付入母屋造】
本堂は室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573)全山焼失しました。
その後天正12年に堀秀政により仮本堂が建立。
のち天海僧正の高弟亮算が入寺し、堂舎再興の勅許を得て諸国に勧進し、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工。
かつての本堂は現在より少し山手の広大な台地に、金堂と五重の塔がありました。
現在の本堂は、一重、五間六間、入母屋造で正面中央に軒唐破風が付せられております。
金剛輪寺・西明寺の本堂よりもひとまわり小さいですが、天台形式の構造をもった均整のとれた建造物で、平成16年12月に文化庁より重要文化財の指定を受けました。
なお、外部の総高欄の擬宝珠に「百済寺本堂 慶安5年壬辰3月吉日」の刻銘があり、そのときにすべて完成したことを知ることができます。
内部に外陣と内陣とに引違格子戸を用い、内陣の厨子には、秘仏本尊の2.6mもある巨像の十一面観音立像(奈良時代)を安置しております。
海抜350m。
- 三所権現社(さんじょごんげんしゃ)
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【市指定建築物】
一間社流造の三所権現。本堂と同時期の建立で熊野三社の主祭神をお祀りしております。
- 旧本堂跡(きゅうほんどうあと)
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海抜365mにある大地で現在の本堂のある大地の約10倍の大きさがあったという(土砂崩れで2/3は埋没)。
ここに現本堂の約4倍の7間4面2層の本堂があったといわれています。
- 五重の塔跡(ごじゅうのとうあと)
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五重塔の礎石(建坪130m2)が旧本堂跡地の右手120m離れた高台に残っております。
- 鐘楼(しょうろう)
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【市指定建築物】
現在の梵鐘は3代目で1955年(昭和30年)の鋳造です。初代は信長焼討ちの際に持ち帰られ、2代目(江戸時代に鋳造)は先の大戦で供出しております。
- 千年菩提樹(せんねんぼだいじゅ)
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樹齢は推定約千年。この菩提樹は山号にちなんで古来より「仏陀の聖樹」として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えられてありましたが、天正元年4月7日に惜しくも信長の焼き討ちにあい、幹まで焼損しました。
幸いにも熱が根まで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っております。
中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当しております。
- 北参道(きたさんどう)
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百済寺本堂から真北へ約10km行くと中山道が交叉する。
ここは大門と称され、最盛期の百済寺の入り口でした。
銘酒「百済寺樽」も樽で運ばれて瓢箪に詰め替えて、旅人に提供されておりました。
この参道は、樽酒の道(Rice Wine Road)の機能も有していたそうです。