天台宗 湖東三山 釈迦山 百済寺

「緑と謎のロマン」に包まれた近江の最古刹,近江西国霊場十六番,湖国十一面観音霊場十番,湖東二十七名刹霊場十一番,五木寛之著「百寺巡礼」三十五番

■緑と謎のロマン8つキーワード

百済寺は、金剛輪寺、西明寺とともに天台宗の古刹で湖東三山と称されていますが、三山の中では最も歴史が古く、実に謎に満ちた寺院で、他の二山とは全く異なる雰囲気を漂わせております。
と言うのは、その波瀾万丈に満ちた歴史にあるといえます。

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1、聖徳太子創建
そもそも、百済寺は、『百済』の字が示すごとく、推古天皇14年(606)に聖徳太子さまの発願により百済からの渡来人のために創建されたと伝えられています。
平成18年(2006)には、創建以来1400年の記念すべき節目を迎え、悠久の歴史の重みを持つ近江最古級の寺院ですが、2度の自火〔文永11年(1247)、明応6年(1498)全焼〕と中世末期の悲劇的とも言える3度の戦火〔明応元年(1492)、文亀3年(1503)、天正元年(1573)全焼〕に巻き込まれ、創建以来の多くの歴史が闇に消え去ってしまったからです。
 そのロマンに満ちた闇の歴史を再び遡ってみましょう。

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2、近江の最古判
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3、植木の観音さま(ご本尊)
百済寺のご本尊さまは、十一面観世音菩薩(秘仏、全高3.2m)です。
寺伝によると、聖徳太子が百済博士慧慈(高句麗僧)の案内でこの山中に分け入って来られ、杉の大木の上半分が、百済国・龍雲寺のご本尊十一面観音さま用に百済まで運び出されていたことを知り、下半分の根の付いたままの巨木に十一面観音さまを刻まれたことから別名『植木観音さま』という名で崇められております。
この『植木』には、仏教伝来に伴う当時の先進文化・技術が百済から日本に『移植』されたと言う意味も暗示しております。
山号の『釈迦山』は、お釈迦さまの教えをこの国に広めてすばらしい『国造り』をとの太子の篤き想いを汲んで名付けられたものでしょう。
また、百済寺には白鳳時代作と伝わる実に思慮深いお姿の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像(像高:約25cm)が、火難に耐えて土中から発掘・伝承されております。

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4、一千坊の巨大遺構
近江のこの一帯には、韓半島から日本海・若狭を経由して主に百済からの人々が当時の先進文化と先端技術(灌漑・農耕・土木・建築など)を招来し、愛知(エチ)川を中心に湖東平野を肥沃な大地に変えていきました。
その中心は依智(エチ)秦公で一族の氏寺としてひときわ高い山中に百済寺が建立されました。秦河勝が山城(京都)の太秦(ウズマサ)を開き広隆寺を建立したように・・・・
その後、比叡山に天台宗が開宗されるや、やがて百済寺も天台の寺院となり、湖東の小叡山と称されるほどに壮大な伽藍が甍を連ねていました。京都東寺観智院の年代記(1144)にも『百済寺天台別院と号す』と記録されています。
この平安末期から鎌倉時代にかけての百済寺は拡大期に迎え、外部の記録によると寺領を東西南北の四谷(四領域)に分かち、七間四面の本堂、近江唯一と言われた五重塔以下300坊に僧俗合わせて1,300人が居住したともいわれています。
近江の湖東地域は、その地理的重要性から中世の戦国時代に、都とともに戦乱の海と化していきました。
近江の防衛上、佐々木六角氏は、重臣の進藤山城守に命じて観音寺城と並んで百済寺を城壁化して『百済寺城』とし近隣に鯰江城(森城)や青山城などの出城を築いていきました。
『信長公記』によれば、六角義賢との確執の末、百済寺に陣取った信長は、思案の末、鯰江城の早期落城を目指して百済寺に火を放ち全山灰燼に帰したと記されています。
天正元年(1573)4月11日のことでした。
この時の状況を宣教師ルイス・フロイス書簡の5月27日の項にも『Facusang(百済寺)と称する大学には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉と庭園を備えた坊舎1000坊が立ち並び将に地上の天国(Heavenly Paradise)が・・・・・』と絶賛すると同時に、その焼失を深く惜しんでいる様子が記述されております。
また、石曳の絵馬図が示すように、一千坊の石垣の多くは解体されて巨岩(湖東流紋岩)の多くが、安土築城のために持ち去られて筆舌に尽くせぬ無惨な光景であったと言われています。
幸いにも、ご本尊さまほか数体の仏様は、背後の山を越えて8km先の奥の院(西が峰)まで避難・ご遷座されて火難を免れております。この事からも厄除け、身代わり観音さまとしてのご利益・霊験がとくにあらたかといわれております。

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5、千年菩提樹
本堂の左手には、430年あまり前に直径80cmほどの菩提樹が信長の焼き討ちで一端炭と化したもののその周囲から不死鳥のごとく新芽を吹き出し、現在は中空状態ながら直径150cm余りにもなり、別名『千年菩提樹』といわれております。
まさに『釈迦山』の名にふさわしい聖樹となり毎年6月半ば頃には芳香を放つ萌黄色の花が咲きます。
なお、旧本堂跡地は、現本堂裏の石垣上に10倍近くの規模で存在し、その右手120m離れた高台には、湖東のシンボルとして聳(そび)えていた五重塔の礎石(建坪130m²)が残っております。
【みごろ】
●開花……… 夏至(6/22)頃
●散花……… 七夕(7/7)頃
●千年菩提樹 直径1.6mもある親株で本堂左脇に鎮座。
信長の焼討にも耐えた不死鳥の如き姿は、私たちに感銘を与えてくれます。
●香り……… 芳しい香を境内全域に放ち、蝶、蜂、アブ、蛾、蟻などが争うことなく仲良く、「蜜と花粉」を分け合っています。
お釈迦さまが、菩提樹の下で悟られた状況が判るようです。

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6、天下展望の名園
参道途中左手にある本坊・喜見院の池泉回遊式庭園(天下遠望の名園)の遠望台からは、広大な湖東平野を掠めて真西に『お山』(比叡山)を望む時、湖東平野という歴史舞台が果たしてきた地理的重要性が見えてきます。
さらにその西方880km先には、渡来人が母国を偲んだ古の百済国が位置しております。
仁王門を潜り抜けると、杉の巨木の間に見える正面の石垣の上にはあたかも空中楼閣のように本堂が浮かび上がってきます。
正面のお厨子中では、本尊十一面観音さまが創建以来1400年の間人々に慈悲の眼差しを垂れて来られ、これからも「生きとし生けるものに幸あれ」と願っておられるような気配を感じます。

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7、石垣と杉並木の参道
天正12年(1584)には、堀秀政により仮の本堂が建てられ、慶安3年(1650)には百済寺中興の祖と仰がれる亮纂和尚(天海大僧正第一弟子)の尽力と井伊直孝朝臣、土井利勝、酒井忠勝、栄勝院局、春日局をはじめ多くの喜捨を得、甲良豊後守宗広(日光輪王寺・東照宮などの大棟梁)より500両の寄進を得て、本堂(平成16年12月国重文指定)、仁王門、山門(赤門)等が再建されています。
往時の堂塔規模にはとても及ばないながら、南谷、西谷、北谷の三面要崖に囲まれた「百済寺城の山城」内の遺構は雄大で、第1次遺跡分布調査結果でもすでに275ヶ所の坊跡が確認されています。
寺票から赤門までの並木参道と赤門から本堂に至る約600mの石垣参道沿いの坊跡や石垣は歴史の重みと栄枯盛衰を物語ってくれます。

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8、僧坊酒発祥の地(近江清酒発祥の地:釈迦山百済寺)
清酒の起源は、中世に下記の「畿内4力寺」で「僧坊酒」として醸造されたことに始まります。
とくに『百済寺樽』は、銘酒の誉れ高く、都では超一流の銘酒として室町幕府に珍重されていたことが、金閣寺の『鹿苑目録』(天文5年8月6日の条)や「補庵京華後集」(文明10年、1487年)に記されております。
また、寺領の西谷からは、直径約1メートルの酒甕(常滑焼、備前焼)が10数個出土しております。
この「百済寺樽」の美酒は、足利義尚将軍(日野富子の実子)の感覚まで酔わせてしまったようで、やがて「応仁の乱」から戦国の世へと移って行きました。
■畿内4力寺の僧坊酒醸造寺院
山号 寺号 場所 銘柄
1.菩提山 正歴寺 大和(奈良市) 菩提泉
2.--- 興福寺 大和(奈良市) 南都諸白
3.釈迦山 百済寺 近江(愛東町) 百済寺樽
4.天野山 金剛寺 河内(河内長野市) 天野酒
なお、欧州でも修道院で修道僧たちによりビールやワインが醸造されております。
例えば、ベルギーの"CHIMAY Trappistes Beer"がありますが、これは将にベルギーの「僧坊酒」と言えます。
■[参 考] 銘酒『闘濟寄灘」の醸造用犬籤の発掘状況
[参 考] 銘酒『闘濟寄灘」の醸造用犬籤の発掘状況
●最大寸法 口径:52cm 胴径:82cm 高さ:92.5cm
●出土場所 百済寺 西谷(駐車場)
●出土数 合計:12個
●焼物産地 備前焼:7個 常滑焼:5個 ---
●保 管 東近江市教育委員会

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